色褪せない企業小説(書評:獅子文六『箱根山』新潮社1962.1[文庫版:講談社1996.2、筑摩書房2017.9])

Submitted by 恩田重直 on Mon, 12/14/2020 - 06:00
獅子文六『箱根山』
獅子文六『箱根山』講談社1996.2(筆者撮影)
 

 本書は、企業小説の「嚆矢的傑作」(講談社文庫版、表表紙あらすじ)だという。舞台は、戦後の箱根。高度成長を背景に、新興企業が観光開発にしのぎを削る中、翻弄される老舗旅館という構図である。

 企業小説というからには、実在する原形がある。作中では、架空の名称を使っているが、企業はもちろんのこと、ホテル、地名なども具体的な存在をもとにしている。本書は、それらを知ってから読むと、一段と楽しみが広がるだろう。登場する企業のほとんどは、現在でも存続しているし、今日の箱根観光でも訪れるであろう場所とも少なからず重なるからだ。

 実際の存在を頭の片隅に置いておくことで、登場する企業の成長過程を目の当たりにしていない世代にとっては、心象とはいささか異なる企業の側面が見出せるかもしれない。また、地名などを手掛かりに、地図と照らし合わせれば、今日の箱根がかたちづくられていく、足跡をたどることができよう。

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 さて、本書を深く読むための読書案内として、作中の企業などを実在のものと対照させておこう。そして、本書の筋書きを明かさない程度に、補足的な説明を付け加えておくことにする。

 そもそも、本書の題材となった出来事がある。それは、いわゆる「箱根山戦争」と呼ばれているもので、箱根の観光開発における企業間の対立を指す。これは、直接的には西武鉄道傘下の駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)と、小田急電鉄傘下の箱根登山鉄道との対立であった。そして、小田急電鉄にしても、箱根登山鉄道にしても、戦中から戦後にかけての一時期、東京急行電鉄(現東急)が主導する大東急と呼ばれる傘下に収まっていたこともあり、背後にはその影が見え隠れしていたから、西武鉄道と東京急行電鉄の対立でもあった。

 本書では、これらの対峙する企業が、時の運輸省に招集され、聴聞会が開かれる場面で幕を上げる。そこで登場するのは、西郊鉄道の篤川安之丞、南部急行の近藤杉八、関東急行の木下東吉といった面々である。これらはそれぞれ、西武鉄道の堤康次郎、小田急電鉄の安藤樽六、東京急行電鉄の五島慶太ということになる。これらの錚々たる面子で繰り広げられる論争から筆が起こされる。

 こうした鉄道会社の対立を尻目に、颯爽と現れるのが、氏田観光の北条一角であり、藤田観光の小川栄一を素材としている。藤田観光は、戦前の藤田財閥、ひいてはその中核を担っていた同和鉱業(現DOWAホールディングス)から独立した会社である。現在でも、大阪の太閤園、東京目白の椿山荘などを運営している。そして、箱根で展開したのが小涌園であった。ちなみに、閉園して間もない豊島園も、その端緒には藤田財閥が関係している。

 

 著者は対立する鉄道会社と、それとは中立的な立場をとる観光会社という非常にわかりやすい図式で、この抗争を描く。その実態は調べていないので、判然としないが、「事実は小説より奇なり」を信じて疑わない筆者としては、三つ巴の対立だったのではないか、と思う。とはいえ、鉄道各社は保有する鉄道やバスを利用させるための観光開発に力点を置いていたであろう一方、鉄道を保有しない観光会社は、観光施設への集客に主眼を置いていたであろうことは容易に想像がつく。つまり、観光開発の目的が、根本的に異なることは指摘できよう。

 とにもかくにも、観光開発に限らず、独自の発想力で新しいことをはじめられる人材や企業は、決して多くない。今日でも、成功事例なるものが喧伝されると、猫も杓子もそれに飛びつく現象は、あちこちで見られる。結果、その猿真似は失敗することになる。そういう意味では、著者が描く氏田観光のような企業が増えることを願うばかりである。

 さて、こうした企業の観光開発に翻弄される老舗旅館についても、触れておく必要があるだろう。本書の中では、本家とそこから分家したという二つの老舗旅館が対立的な関係で登場する。この二つの老舗旅館が立地する芦刈とは、鎌倉時代に開湯したとされる芦之湯のことである。これまで、箱根には何回となく訪れているが、恥ずかしながら知らなかった。

 この老舗旅館を特定するまでには至っていない。が、現在でも営業している松坂屋本店のウェブサイトには、獅子文六が逗留したという記述がある。なので、いずれかの旅館は、ここを素材にしているのかもしれない。調査をかこつけて、箱根にひとっ風呂でも浴びに行きたいものだ。

 

 

 ちなみに、説明は要らないかもしれないが、新興のホテルとして登場する不二ホテルは富士屋ホテル、常春苑が小涌園である。

 なお、講談社文庫版の解説、清原康正「人と作品:獅子文六」によれば、本作品は「1961年3月17日から10月7日まで『朝日新聞』に連載された新聞小説」(p.443)だという。そして、1962年に新潮社から単行本として出版される。この『箱根山』が刊行された後も、箱根は荒れた。まずもって、富士屋ホテルがお家騒動に端を発し、小佐野賢治の国際興業に買収されている。

 『箱根山』は、その後、文庫本として、1966年に新潮文庫、1996年に講談社文庫、そして2017年にはちくま文庫が刊行されている。登場人物の名前に、若干の古めかしさを感じるものの、時代を超えて読み継がれる背景には、色褪せない設定によるところが大きいだろう。後に数多く登場してくる、企業小説の一つの範をつくりあげているようにも思う。加えて、主旋律を彩る箱根で起きた出来事が、丁寧に調べられていることからくるぶれのなさにも起因しよう。少なからず、ものする筆者も、いつの時代になっても、色褪せないこうした文章を目指したい。

 さて、巻末エッセイ「『箱根山』のこと」を書いた佐高信は、正月の箱根駅伝を見ながら「ここで展開された『サルカニ合戦』に思いを馳せる」(講談社文庫版p.424)らしい。確かに、『箱根山』を読了した今後の箱根駅伝は、映し出される映像から、脳裏にこれまでとは異なる風景がよぎりそうである。とりわけ、近年の駅伝では「山の神」が登場する往路の5区、ならびに復路の6区は目が離せないだろう。誰が神になるのかは知る由もないが、期待するのはカメラが一時も離れないような熱戦だ。「山の神」の背後に映る風景に、『箱根山』を重ね合わせたい。

 そしてなにより、箱根を再訪したい、というのが率直な読後感である。目に飛び込んでくる一つ一つの風景が、これまでとは異なる新たな風景として刻まれることは疑いない。ここに及んで、単に新しい観光施設をつくることだけが観光開発ではないことに気づかされる。

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